
宿からガートへ向かう迷路のように入り組んだ細い道の途中に、小さな広場があった。
三メートル四方ほどの空間に、神様を祀った祠と、水や細々とした物を売る小さな雑貨店。
そして、そこに爺さんがいた。
昼間からトランプに興じる連中と、その取り巻き。
働きもせずに時間を潰しているロクデナシたちを横目に、この爺さんは飄々と腰を下ろしていた。
とても陽気で、どこか余裕のある人だった。
最初に言葉を交わしたきっかけは何だったか。
雑貨店で水を買って一息入れた時か。
それとも「今日も暑いね」とこちらから声をかけたのか。
あるいは爺さんが「どこから来た?」と尋ねてきたのかもしれない。
いずれにせよ、その日からそこを通るたびに、名も知らぬ爺さんと挨拶を交わすようになった。
インドを旅していると、つい疑心暗鬼になる。
押し売りや強引な物売りに疲れてしまうことも多い。
だからこそ、こういう自然体でオープンな人に出会うと、不思議と心が和らぐ。
最終日、デリーに戻ることを告げたとき、爺さんは何と答えてくれただろう。
はっきりとは思い出せない。
ただ、路上に畳一枚ほどの露店を広げ、ゆったりと微笑んでいた姿だけは覚えている。
無粋に押し売りなどする人ではなかった。
だからこそ、せめて絵葉書の一枚でも買っておけばよかったと思う。
今ではインドも、バラナシも、随分と遠い場所になってしまった。
けれど、この爺さんとはまたいつか、同じ場所でひょっこり出会えるような気がしている。
インドで写真を撮る時に大切なこと
海外で写真を撮る場合、こういう爺さんと仲良くなれるかどうかで、撮影のしやすさが格段に変わってくる。
トランプをやっているロクデナシやその取り巻きと仲良くなっても、次の日には姿を消していることが多い。
距離を詰めるべきは、定点観測している雑貨屋のオヤジか、この爺さん。
雑貨屋は店の中、爺さんは路上で目の前。
爺さんの方が間合いが詰めやすい。
何より、短い言葉を交わした時の感覚が自然だった。
もちろん雑貨屋で水を買ったり、トランプを覗き込んだりするのも悪くない。
けれど写真を撮る以上、被写体に話しかけて細かいコミュニケーションを取るのは必須だ。
通りすがりに突然立ち止まり、カメラを向けても良い写真は撮れない。
第一、失礼でもある。
だからこそ、ちょっとした会話、ちょっとした笑顔。
安心して撮影できる雰囲気をつくるために、その場の空気を読むこと。
揉め事を回避するためにも、暗黙の「撮影許可」を得ること。
それが海外で写真を撮る時に大切なことだと思う。
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